今までの法話集(1話〜20話)

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第一話

「なぜ死が不安になるのか?」というお話をさせて頂きます。

仏教というのは、仏の教え=お釈迦様の教えです。生きている人間が絶対の幸福に成る為に色んなご説法をされて居ります。亡くなられた人の為ではありません。そのご説法をお釈迦様のお弟子さん達が書き留められたものを「お経」と申します。そのお経の数は七千余巻あります。その七千余巻すべてのお経を「一切経」と申します。


そこにある「本願成就文」に説かれてる内容は「極楽浄土の阿弥陀如来の本願力によって絶対の幸福にさせて頂ける」という内容です。詳しく言うのは奥が深すぎますので一度や二度聞いただけでは理解できません。一言で言うと「他力本願」です。他力とは阿弥陀如来のお力です。


阿弥陀如来(極楽浄土の仏様)を疑うことなく信じ全てをお任せすれば必ず極楽浄土に往生させて頂く事が出来る。ということです。


たとえ話
飛行機に乗って太平洋の大海原のど真ん中に差し掛かった時にアナウンスで「燃料が無くなってきました。着陸する空港も見当たりません。残りの燃料が切れるまで、皆さまには機内食を全て提供させて頂きますので、どうぞお召し上がりください。」と言われるとどうでしょうか?この先は墜落という真っ暗闇が待って居ります。食事は手にも付かない状態です。このように先が暗ければ、今現在も楽しくありません。死も同じです。

先が明るければ今現在も楽しく幸せです。


休日前は先が明るく(休日という明かり)楽しい気持ちで、休日最終日の夜は先が暗く(明日から仕事という暗闇)暗い気持になります。


この事を意識すれば、楽しい日も多くなりますよ。先に暗闇を作らないように心掛けて、自分の気持ちをコントロール出来ますね。

私たちは亡くなれば、阿弥陀如来のお力によって必ず極楽浄土に往生させて頂けます。その事がハッキリすれば先は明るくなり、今から残りの人生が明るくなります。


是非、仏教を聞き開いてください。やさしい仏教書を読んだりお寺の法話会などに参加して下さい。聞けば聞くほどよく理解出来て心も明るくなりますよ。「仏法は聴聞に極まる」と言われているくらい何度も聞く事が大事です。合掌

第二話

因果の道理
「過去の自分の行いは今の自分を見れば分かる。未来の自分を知りたければ、今の自分を見よ。」
この言葉は仏教の根幹である【因果の道理】から分かります。自分の行いは良い事も悪い事も全て自分の結果となります。
一日一善、良い事を沢山して、未来の自分に沢山の幸せを与えましょうね!


仏教で光とは
仏教では「光」は仏様のお力を意味します。
親の力の事を「親の七光り」と言いますが、語源は仏教の光ではないのでしょうか。


自利利他
自分の心の明かりを周りの人にも照らしてあげましょう。周りの人が幸せなら、自分も幸せになれます。
自分が幸せなら、周りの人も幸せにさせてあげたい。
これが「自利利他(じりりた)」なんですよ。
自分が幸せになりたいのなら、周りの人を幸せにさせなければいけない。
本日も皆さまが幸せの種まきの出来る一日でありますように。合掌

第三話

布施とは何か
仏教用語で「布施」は親切という意味です。
お坊さんに渡すお布施も布施ですが、布施には種類があります。
★財施 ・法施 ・無財の七施★

すごく簡単に言うと、人に親切に接する事が「布施」です。

笑顔で接する事・励ましや優しい言葉をかけること・身体を使ってボランティアをする事など色々あります。

今日から一日一回、心からの布施(親切)をされてみては如何でしょうか。(お釈迦様のオススメですよ)

持戒とは何か

仏教用語で「持戒(ジカイ)」は言行一致という意味です。言行一致は、口で言った事が行動と一致する、つまり約束を守ると言う事ですね。

自分の周りの方との守れていない約束は御座いませんか?

今日は少し休憩時間に考えて、近日中に言行一致となるように努めましょう。

本日は皆さんにとって、約束を守って誰かに喜んで頂ける素晴らしい日となりますように!合掌

第四話

忍辱とは
仏教用語で「忍辱(ニンニク)」は、忍耐(耐え忍ぶ)という意味です。
「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」(お釈迦様)

怒りは三毒の煩悩の一つで非常に恐ろしいものです。心の奥深い所にいつでもあり、何かの縁で急に表に出る恐ろしいもの。

怒りは必ず時間が経てば、後悔しか残りません。

「耐え忍ぶ事が美しく幸せになれる」ではないのでしょうか?

本日は怒る事があっても、耐え忍ぶ事が出来る自分で在りたいですね。

精進とは
仏教用語で「精進(しょうじん)」は努力という意味です。
今の時代にも精進料理(肉を食べない料理)などありますが、仏教用語の精進ではありません。
精進は努力です。「努力は裏切らない」という名言もあります。「努力無くして、成功は無し」。お釈迦様もお勧めの努力を常日頃から惜しまずどんどん努力して、共に成長させて頂きましょう。

第五話

禅定とは
仏教用語で「禅定(ぜんじょう)」は反省と言う意味です。
反省と聞くと、悪いことをしてしまったら反省すると思いますが、これは当然のことです。
一番大切な反省は、「自分に悪い出来事がやって来た時」に過去の自分の行いを反省する事です。

善因善果(善い行いは善い結果で返ってくる)
悪因悪果(悪い行いは悪い結果で返ってくる)
自因自果(自分の行いは全て自分に返ってくる)
byお釈迦様

悪い出来事が自分に起こった時は悪者探しをしてしまいがちですが、その時にその悪い出来事が起こった事を反省して、(過去の自分の悪い行いが返ってきたと反省)このような悪い事が起きないように善い行いをするように心掛けましょう。

智慧とは
仏教用語で「智慧(ちえ)」とは修養という意味です。(六度万行の智慧です。)
修養とは、知識を高め、品性を磨き、人格を高めようと努力する事です。
先週・先々週までの投稿を見て頂いてる方には分かるかと思いますが、布施・自戒・忍辱・精進・禅定を行えば、修養も自然に出来ると思います。
本日は、少しでも修養が出来る一日になれば良いですね。

第六話

六度万行(六波羅蜜)とは
布施(ふせ)
持戒(じかい)
忍辱(にんにく)
精進(しょうじん)
禅定(ぜんじょう)
智慧(ちえ)

※先週までの法話で上記をお話しました。

これを「六度万行(ろくどまんぎょう)」※六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。 お釈迦様は諸善万行を説かれて居りますが、私達が善行を行いやすいようにその中から6種類の善行を選んでお勧めしてくれました。

それが六度万行(六波羅蜜)です。

どれか一つ実行すると、6種類の善行を全て行ったことになります。

今週から毎日の生活に、六度万行を取り入れて【一日一善】、善因善果(ぜんいんぜんか)自因自果(じいんじか)の人生を歩んで行きましょう。

第七話

無財の七施(眼施)とは
仏教では「無財の七施」というお言葉があります。
「無財の七施」とは、お金や物が無くても出来るお布施でございます。

無財の七施

眼施(げんせ)
和顔悦色施(わげんえっしょくせ)
言辞施(ごんじせ)
身施(しんせ)
心施(しんせ)
床座施(しょうざせ)
房舎施(ぼうしゃせ)

今日は「眼施(げんせ)」のお話です。
眼施(げんせ)とは、あたたかい眼差しで他人に接する事です。そうすれば、相手の方も良い気分になれますし励みにもなります。
その逆に、こちらが厳しい眼差しをしていれば、相手の方も不愉快になる事でしょう。「目は口ほどに物を言う」ですね。

本日は、自分の気分が優れなくても、誰かと接する時は眼施(げんせ)を心掛けましょう。
本日は皆さんにとって、他人から好意を持たれる日になりますように。合掌

第八話

和顔悦色施(わげんえっしょくせ)とは
無財の七施の一つである「和顔悦色施(わげんえっしょくせ)」のお話です。

和顔悦色施(わげんえっしょくせ)は、優しい微笑みの笑顔で人に接することです。
優しい微笑みは周囲の雰囲気も和みます。また自分自身も明るい気持ちになれるでしょう。

「笑う門には福来る」とよく言いますが、和顔悦色施(わげんえっしょくせ)は周囲の人も自分自身も幸せになれます。

忙しくても少し深呼吸をして、優しい微笑みで周囲の雰囲気を和ませましょう。本日は皆さんにとって、微笑みが絶えない一日になりますように。

言辞施(ごんじせ)とは
無財の七施の一つである「言辞施(ごんじせ)」のお話です。

「言辞施(ごんじせ)」とは、優しい言葉をかける事です。
お年寄りに「お身体に気をつけてくださいね」、店員さんに「ありがとう。頑張ってね」というように、優しい言葉を一言かける事によって相手の方も幸せな気分になれますし、自分自身も幸せを感じる事が出来ます。

簡単なようで、なかなか出来ない事ですね。

今日は人に優しい言葉を何回かけてあげる事が出来ますでしょうか(^O^)是非実践して下さい。本日は皆さんにとって、穏やかな気分になれる一日になりますように。合掌

第九話

身施(しんせ)とは
無財の七施の一つである「身施(しんせ)」のお話です。

「身施(しんせ)」とは、世のため他人の為に体を使って奉仕をする、いわゆるボランティアです。ボランティアといっても色々ありますが、日常生活で出来るボランティアは沢山あると思います。

ゴミを拾ったり、自転車が倒れていれば起こしてあげたり、自治会の活動のお手伝いをしたりと色々ありますよね(^O^)

でも、いざとなると見て見ぬ振りをしてしまう自分が情けなく感じます(T ^ T)

ゴミを一つだけでも拾って身施(しんせ)をさせて頂きましょうね。

本日は皆さんにとって、人として少しでも成長出来る日になりますように。合掌


心施(しんせ)とは

無財の七施の一つである「心施(しんせ)」のお話です。

「心施(しんせ)」とは、心から感謝の言葉を言うことです。「身施(しんせ)」は体を使って行う布施でしたが、「心施(しんせ)」は心です。


心から感謝の気持ちを言うことは、あまり出来ていないかと思います。口先だけの言葉では、残念ながら全く相手にも伝わりません。

心から感謝の気持ちを込めて「ありがとう」と言いますと、相手にも気持ちが伝わり、お互いに幸せな心になれますね(^O^)

「おはよう」「ありがとう」と心から感謝の気持ちを込めて挨拶させて頂きましょう。本日は皆さんにとって、心から明るくなれる一日でありますように。合掌

第十話

床座施(しょうざせ)とは
無財の七施の一つである「床座施(しょうざせ)」のお話です。

「床座施(しょうざせ)」とは、簡単に言えば人に譲る事を言います。

席を譲ったり、場所を譲ったり、車の割り込みを譲ったり、意見が衝突した時に相手の意見を優先してあげたり…他も沢山あるかと思います。

でもいざ譲るとなれば、なかなか出来ないことですよね。席を譲りたくても自分の身体がかなり疲れている時、長い時間並んで得た場所を譲る、渋滞の時に割り込みされる、意見が衝突した時に自分の意見を抑え込むなど…

一言で譲るといっても、凄く難しい事ですから、これが出来ると素晴らしいですね。今日は、自分が穏やかな気持ちで人に何かを譲ってあげれるように心がけましょう。

本日は、皆さんにとって人から沢山の感謝をされる一日となりますように。合掌

房舎施(ぼうしゃせ)とは
無財の七施の一つである「房舎施(ぼうしゃせ)」のお話です。

「房舎施(ぼうしゃせ)」とは、一宿一飯のおもてなしです。遠方から訪ねて来られた方の、食事や宿泊の面倒を見る事を言いますが、なかなか出来る機会も少ないお布施ですね。

お金や物が無くても出来るお布施「無財の七施」を紹介させて頂きました。お布施は、心にゆとりが無ければ出来ませんので、いつも自分の心にゆとりが持てる生活を心がけ、布施の気持ちを忘れずに過ごしたいですね。

心に十分ゆとりを持ち、一日にどれだけの無財の七施が出来るかどうかチャレンジして下さいね。本日は皆さんにとって、ゆとりの一日となりますように。合掌

 

第十一話

そろそろ節分の時期ですね。
もうすぐ節分の日ですね。
豆まきをされるのでしょうか?

『鬼は外  福は内。』 楽しそうですね。
でも自分自身にも「心の豆まき」を忘れないで下さいね。自分の心の鬼に「鬼は外」、自分の心に「福は内」ですね。

「心の豆まき」は鬼は外と思って、善い行いをして下さいね。福は内と思って、仏法を聴聞して下さい。心には、青鬼・赤鬼・黒鬼が住んでいますので(^_^)三毒の煩悩(次のお話)で説明させて頂きます。

本日も幸せな一日をお過ごしくださいませ。合掌

三毒の煩悩
節分に鬼は退治出来ても、心に住み着く青鬼・赤鬼・黒鬼は残念ながら退治する事は出来ません(泣)

なぜならば、青鬼は貪欲(とんよく)・赤鬼は瞋恚(しんに)・黒鬼は愚痴(ぐち)だからです。貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)は「三毒の煩悩」と言います。

煩悩は108つありますが、特に私たちを苦しめているのがこの三毒の煩悩です。煩悩は難行苦行をしても一つも無くならないどころか減る事もないと、先人の高僧達が仰っておられます。煩悩のパワーは凄いので、そのパワーを良い方向に切り替えて上げれば良いと思います。

今日も自分の煩悩と上手に付き合って、成長が出来る環境づくりをしたいですね。本日は皆さんにとって、パワフルな一日となりますように。合掌

 

第十二話

貪欲(とんよく)とは
仏教で貪欲は「とんよく」と読みます。意味は普段私たちが使っている言葉の「どんよく」と同じです。

節分の青鬼で例えましたが、三毒の煩悩の一つである貪欲は青色で表現されます。有ればあるだけ欲しい、キリがないくらい欲しいという欲ですね。

私たち人間は煩悩の塊で「煩悩具足の凡夫」です。だから煩悩を無くすことも減らすことも出来ませんが、煩悩と上手に付き合っていくことが大切ですね。

これからは、少欲知足(しょうよくちそく)、少しの欲で足りる事を知る生活を心掛けたいですね。

本日は皆さんにとって、清々しい一日となりますように(^O^)合掌


瞋恚(しんに)とは
私たちは自分の置かれた立場が変われば、捉え方も変わります。言い方を変えれば、全て自分の都合で物の良し悪しを決めてしまうのです。

仏教で「瞋恚(しんに)」は、怒りという意味で赤色で表します。

節分の赤鬼で例えましたが、三毒の煩悩の一つです。ずっと心の奥深くに潜み、何かのキッカケで急に表に出てくる恐ろしい煩悩です。

でも私たちは、先ほどもお話させて頂きました「自分の都合」で物の良し悪しを決めてしまいますから、その怒りが出てきた時には、その怒りのパワーを違う事に向けると良い結果にも繋がりますよね。

「怒りは無謀に始まり、後悔に終わるものだ」という言葉があります通り、怒りのあとは必ず虚しさしか残りません。

これからは、怒りが出る前に「後悔に終わるのだよ」と自分自身に教えてあげて、そのパワーを善い行いに使えるように努力してみましょうね。

本日は皆さんにとって、心が快晴な一日となりますように。合掌

第十三話

愚痴(ぐち)とは
三毒の煩悩の一つである「愚痴(ぐち)」のお話をさせて頂きます。

節分の黒鬼で例えましたが、「愚痴(ぐち)」とは、ねたみ・そねみ・うらみです。仏教では黒色で表現されます。

普段私たちが使っている「愚痴(ぐち)」は、不満などをブツブツ言う事を言いますが仏教では、ねたみ・そねみ・うらみの事です。

私たちは、自分の調子が良い時は他人のことも褒めたり出来ますが、反対に自分の調子が悪い時はこの「愚痴(ぐち)」の心が出てきます。とても恐ろしい心です。

自分の調子が悪い時こそ、他人の成功を褒めてあげる事が出来れば自分自身の成長にも繋がります。

善因善果(ぜんいんぜんか) →→→善い行いは善い結果を頂くことが出来ます・

今日は、他人が良い結果を出した時には、自分の調子に関係なく、全力で一緒に喜んであげましょう。本日は皆さんにとって、精進が苦にならない一日でありますように。合掌

第十四話

三種類の鏡とは
仏教では三種類の鏡があると言われております。

一つ目は「自分鏡」(じぶんかがみ)
二つ目は「他人鏡」(たにんかがみ)
三つ目は「法 鏡」(ほうきょう)

自分鏡は、自分で自分を見ますので、自分の都合の良いように捉えてしまいます。

他人鏡(他人から見られている私の姿)は、他人が私を見て良し悪しを判断しますが、これも自分の置かれている立場によって、同じ物でも良いように見えたり悪いように見えたりします。

例えば、車で走っている時に、横から猛スピードで追い抜く危険な車の後ろに覆面パトカーが追いかけていくと、覆面パトカーは正義の味方に見えますが、自分の後ろで覆面パトカーがサイレンを鳴らし追いかけてきたら「くそ~、なぜ俺だけが?」と色んな気持ちになり、覆面パトカーが悪者になったりします。

不思議ですね。自分鏡と他人鏡は、どちらも自分の都合やその時の状況などにより見え方が変わりますので、本当の自分自身の姿を映し出す事は出来ません。

法鏡(ほうきょう)は仏教です。仏法を聞く事で真実の自己を見る事が出来ます。布施のお話、六度万行のお話、三毒の煩悩のお話を聞いた時でも、自分自身が恥ずかしくなってきます。
なぜならば、仏法は真実の自己が見えますので(^O^)

お釈迦様が「仏教は法鏡なり」と仰せられたことが遺教経(ゆいきょうぎょう)というお経に説かれております。

※遺教経(ゆいきょうぎょう)とはお釈迦様がお亡くなりになられる前にお弟子さん達を集めて最後の説法をされた情景を描く経典です。

今日は自己中心的な考え方を少し和らげて、善の心で見つめ直すように心掛けましょうね。本日は皆さんにとって、素晴らしい一日になりますように。合掌

第十五話

他人鏡(たにんかがみ)

「他人から見られている私の姿」
他人が私を見て、どのように評価しているかで自分を知ることができる。

でも他人の都合で良くも悪くも見られますので、自己の真実の姿を映し出すことは出来ません。

「正も邪も 勝手に決める わが都合」と謳われますように、その時の都合により褒めたり貶したりします。

「嫌いな人の真実よりも 好きな人の嘘がいい」と言われますように、嫌いな人の話は真実でも受け入れられず、好きな人の言う事は嘘でも受け入れる事が出来ます。

このように、他人鏡は自分を評価する人の状況や立場・気持ちなどによって左右されますので、真実の自己の姿は映りません。

他人の表情ばかり伺っていると、自分らしく生きる事が出来ませんね。もっと自分の誠意に自信を持ちましょう。

本日は皆さんにとって、自分の長所が確認できる一日となりますように。合掌

第十六話

先月の他人鏡(たにんかがみ)の続きです。

◎他人から見られている私の姿(他人鏡)
「今日ほめて 明日悪く言う 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」(一休さん)

一休さんがこのように謳われて、笑っておられたように、他人に謗られて泣く必要も無いし、他人に褒められて有頂天になるのもどうかと思います。

他人は自分の都合が良ければ褒めるし、明日にでも都合が悪くなれば悪く言ったりするので、他人鏡だけでは自分を判断する事は出来ませんね。自分自身が日常生活で他人鏡に振り回されていないか再確認をしてみては如何でしょうか。


七つの自惚れ心とは
人は必ずうぬぼれ心があります。うぬぼれ心は7つもあるのですよ。
その7つのうぬぼれ心の事を「七慢(しちまん)」と言います。

七慢(しちまん)」とは

慢(まん)

過慢(かまん)

慢過慢(まんかまん)

我慢(がまん)

増上慢(ぞうじょうまん)

卑下慢(ひげまん)

邪慢(じゃまん)

慢(まん)は自分より劣った相手に対して出てきます。相手を踏みつける恐ろしい心です。口に出さなくても、心で少しでも思った瞬間、相手を踏みつけている事になります。

普段の生活でも、何度もこのような心が起きますね。どうしても私たちは、自分と他人と比べてしまうのです。なぜならば、この世の幸福は「相対の幸福」といい、私たちの幸せは何かと比べて感じる永く続かない幸せだからですよ。

今月は少し意識して、心に慢が現れたかどうか感じて頂き、自分自身を見つめ直し、人としての勉強をして頂ければと思います。合掌

 

第十七話

7つのうぬぼれ心「七慢(しちまん)」

過慢(かまん)とは

慢(まん)は、自分より劣った相手に対して見下す心でした。

「過慢(かまん)」は自分と同じレベルの相手に対して自分の方が優れていると威張る心です。同じレベルの相手に対して「条件が同じなら俺の方が凄かった」と自分の方が優秀だと思ってしまう心なのです。

良い言い方をすれば負けず嫌いですが、この負けず嫌いという言葉はよく聞く言葉ですね。それだけ「過慢(かまん)」は知らぬ間に、頻繁に現れる自惚れ心ではないでしょうか。これでは周囲からも嫌われてしまいますよね。

今月は相手よりも一歩下がるという事を心掛けてみたらどうでしょうか。皆さんにとって、新しい発見が出来る月日となりますように。合掌

慢過慢(まんかまん)とは
過慢(かまん)は自分と同じレベルの相手に対しての自惚れ心でした。

慢過慢(まんかまん)は、自分より優れた相手に対して「俺の方が上だ」と思い素直に認められない心です。例えば、「あいつは勉強だけ出来てスポーツは出来ない。俺はスポーツも出来るんだ。だから俺の方が上だ」など、負けている事も認められないのです。

良い言い方をすれば負けず嫌いですが、残念ながらこれは自惚れ心ですね。負けず嫌いと自惚れを勘違いしてしまうと、周囲の人からも良いようには見られないのです。

私たち人間は、例外なく自惚れ心がありますので、自惚れるのではなく素直に相手を祝福してあげれる様になりたいですね。日常生活を振り返って自惚れていないか確認させて頂きましょう。皆さんにとって、幸せの種まきが出来る月日となりますように。合掌

 

第十八話

7つのうぬぼれ心「七慢(しちまん)」

我慢(がまん)とは

日常的に我慢とは忍耐と言うような良い意味で使われていますが、仏教では「自分の意見を押し通す心」です。自分の間違いに気付きながらも、折れる事が出来ずにいつまでも自分の意見を押し通そうとします。

思い当たる事が沢山ありますよね。このように聞いて思い出せばとても恥ずかしい事だと分かりますが、どうしても「我慢(がまん)」が出てしまう場面も少なくありません。

自分が勘違いした時に、「我慢(がまん)」が出てしまうような記憶があります。勘違いした時は、素早く間違いを認めて勘違いしたという事で笑って流せるようにしたいですね。

今月は「我慢(がまん)」を意識して、自分自身を見つめ直したいですね。


増上慢(ぞうじょうまん)とは

「増上慢(ぞうじょうまん)」とは、覚りを開いてもいないのに覚ったと自惚れている心です。知ったかぶりをする事でも、自分にとってよくない事で周りからも嫌われてしまいますが、少し上手くいけば覚りを開いたかのように思う心は本当に恥ずかしいですね。

あまり無いかと思いますが、でも自分で何かを覚ったと思った時には「増上慢(ぞうじょうまん)」が出たなって思って下さいね。

今月は、自分自身を見つめなおしてお過ごしください。きっと自分自身にも、心当たりのある増上慢ですので気をつけていきましょう。

第十九話

7つのうぬぼれ心「七慢(しちまん)」

卑下慢(ひげまん)とは
自分の謙虚さを自惚れる心です。自分の謙虚さも自惚れ心の元になっているのですよ。
「私ほど悪いものはおりません」「未熟者ですがよろしくお願い致します」などと申しておきながら、心の中では「こんなに頭の低い者は見たことないだろう」と自分の頭の低さを偉いと自惚れているのです。

これは正直に言うと、毎回ではありませんが、たまに自惚れている時があったりしますよね。言葉にして見ると自分自身の心が凄く恥ずかしいですね。

心で思うことは、口や身体に現れますので仏教では心を重くみます。口に出してなくても、行動してなくても心で思った瞬間に行動を起こした事と同じになるのです。

私たちは毎日何かを自惚れているのだなぁってハッキリと分かります。今月は、本当の謙虚な気持ちで人と接する事が出来れば良いですね。


邪慢(じゃまん)とは
とんでもない事を自慢する心です。
泥棒が「俺ほど素早く盗めるものは他にはいない」などと自慢をしてればどうでしょうか。呆れてものも言えないですよね。このように聞けば分かるのですが、「俺は定価の◯倍で商品を売りつけてやった」「俺は毎日薬を人の何倍も飲んでいる」など日常的によく聞きますよね。

よくよく聞くと呆れるお話ばかりで、本当にとんでもない事を自慢する私が居てるのが解ってくると思います。今月で七慢のお話が終わりますが、何度も読んで自分の鏡にして頂ければと思います。

毎日鏡で顔を見ますよね。でも心の鏡を見なければ、心が汚れている事に気付かず、顔の表情にも行動にもその心の汚れが現れるのですよ。心の鏡を見て、自分自身を磨き綺麗に美しく整えておきたいものですね。

「仏教は法鏡なり」(お釈迦様)
法とは真実です。真実の鏡なのです。合掌

第二十話

先月まで七慢のお話をさせて頂きましたが、人間は自惚れ心があるので自分鏡でも真実の自己が映らない事がハッキリと解りました。他人鏡も見る人の都合や気分によって変わりますので、真実の自己は映りません。

真実の自己を映し出すためには「法鏡(ほうきょう)」しか無いのです。「仏教は法鏡なり」とお釈迦様は仰せになられております。では、仏様が私たちの事をどの様に見ておられるのでしょうか。

仏様は心と口と身の三方面から見られております。人間の行いを「身口意の三業(しんくいのさんごう)」といいます。「身口意の三業」の身は身体・口は口です・意は心を表します。三業とは3つの行いという意味です。その中でも心を一番重視しているのが仏教です。

身体で行う悪も、口で言う悪も止めようと思えば止める事が出来ます。しかし心で思うことは無くす事も止める事も出来ません。それは何かを見た瞬間に心が反応しているからです。良い事も悪い事も心で思った瞬間に、行動に起こした事と同じ扱いになるのです。

心で思う悪を一つでも反省させて頂くためにも、毎日のように自利利他を心掛けて良い行いをし、少しでも成長させて頂きましょう。仏教は死者の為ではなく、生きている人間に説かれた説法なので、仏教で真実の自己がわかれば幸せになれる道がひらけるのです。

今月は皆さんにとって、穏やかな一ヶ月になりますように。合掌

いつでもお気軽にお電話をして下さい。お坊さん出張のホームページをご覧頂き誠に有難う御座います。合掌

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