今までの法話集(21話〜)

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第二十一話

天井天下 唯我独尊(7=6+1)

今月の8日は降誕会(ごうたんえ)ですね。

約2600年前の4月8日に、お釈迦様が興出(こうしゅつ)されました。お釈迦様の興出された事を祝う行事が降誕会(花祭り)なのです。

お釈迦様がお生まれになった時に右手を天に、左手で地を指して「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と唱えられました。このお言葉を間違って解釈されている人が多いと聞いております。

間違い→「ただ我独りが尊い」と仰った。

我というのは我々人間という意味なので、正確には「大宇宙広しといえども、人間にしか果たせないたった一つの尊い目的があって私たちは人間に生まれてきたのだ」と仰ったのです。

独尊とは「摂取不捨の利益」です。

摂取不捨の利益とは、阿弥陀仏の本願に救われ摂め取られて捨てられないという幸せですので、絶対の幸福のことなのです。また、お釈迦様誕生の時に、東西南北に7歩ずつ歩かれました。7=6+1で六道出離を意味するのです。

6は六道輪廻の六道(苦しみがある六つの世界で「地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界」です。)+1は絶対の幸福になって極楽浄土に往生する事なのです。

人間に生まれなければ、仏教も理解できない。阿弥陀仏の本願も聞くことが出来ない。阿弥陀仏の本願によらねば、絶対の幸福になって六道出離をすることは出来ないのです。

お釈迦様に感謝の気持ちを込めて、有り難く花祭りに参加させて頂きましょう。今月は皆さんにとって、新しいスタートラインが見つかる月となりますように。合掌

第二十二話

お釈迦様は心と口と身の三方面から見られております。人間の行いを「身口意の三業(しんくいのさんごう)」といいます。

大無量寿経というお経の中に、法鏡には次のように映れていると説かれています。
心常念悪(しんじょうねんあく)
口常言悪(くじょうごんあく)
身常行悪(しんじょうぎょうあく)
曽無一善(ぞうむいちぜん)

心常念悪→「心、常に悪を念じ」
口常言悪→「口、常に悪を言い」
身常行悪→「身、常に悪を行じ」
曽無一善→「曽て一善無し」

これだけを見れば、私たちは常に悪いことばかりを行なっているように聞こえますね。なぜこのように説かれているのかを聞かせて頂きましょう。

心常念悪
①貪欲(とんよく) ②瞋恚(しんに) ③愚痴(ぐち)が「心、常に悪を念じ」と言われているのです。これが心で行う悪なのです。以前に三毒の煩悩で説明させて頂きましたが、私たちは常に欲・怒り・愚痴の心で生活をしています。私たちは死ぬまで煩悩だらけの凡夫なので仕方がないことですが、仏教を聞き悪をやめて善をするように心掛けましょう。

口常言悪
④綺語(きご) ⑤両舌(りょうぜつ) ⑥悪口(あっこう) ⑦妄語(もうご)で、口は四悪を好むと言われています。綺語はお世辞、両舌は二枚舌、悪口はわるぐち、妄語はウソなのです。心で思っていることと、言っていることが違う事をウソと言うならば、ウソをつかない人は存在しません。善意のウソもありますが、それは心で人に言えない事を思っているという事です。

お釈迦様は「心口各異 言念無実」と仰っておられます。心と口は異なり、言うこと思うことに誠なしということです。心で思っている事をストレートに口に出せば、大変なことになる事が多いでしょう。また、口に出せない恐ろしい事も思っている時があるでしょう。

私たちは、常に口でも悪を行なっている事が分かります。でも真実に導くために事実と異なる事を言うのは「方便(ほうべん)」と申します。嘘も方便という言葉もありますが、仏教ではウソは方便ではありません。方便とウソの違いに注意が必要です。

私たちは、生きていくためにはウソも必要ですが、それに対して人を傷つけたりしないように気をつけなければいけません。語殺」「舌刀」と言われるぐらい口は時と場合によっては恐ろしいものに変わってしまいます。普段からいつも、今まで知らぬ間に周囲を傷つけていないか考えることが大切ですね。

常に善を心がけて悪い行いを減らすために毎日、六度万行のうちの1つでも実践されてみては如何でしょうか。来月は身常行悪・曽無一善のお話をさせて頂きます。

第二十三話

身常行悪
⑧殺生(せっしょう) ⑨偸盗(ちゅうとう) ⑩邪淫(じゃいん)です。殺生は生き物を殺すこと、偸盗は他人の物を盗むこと、邪婬は男女のよこしまな関係です。

殺生は三通りあると教えられています。
○自殺(じさつ)→自分で生き物を殺す
○他殺(たさつ)→他人に命じて殺す
○随喜同業(ずいきどうごう)→他人が殺生しているのを見て楽しむ心があれば同罪になる

人間はとても恐ろしい事をしているとハッキリ分かります。でも私たち人間は、殺生をしていかなければ生きていけません。いろんなものを犠牲にしながら生かされている命なのです。不必要な殺生は控えて、食事をする時も「自分は沢山の命のおかげで生かされている」事に感謝をしながら食事をするように心掛けなければなりません。普段の食生活で無駄な食べ方や食べ残しをしていないかを再確認させて頂きましょう。

曽無一善
曽無一善とは、「真実の善は1つもない」という意味です。人間が行う善は雑毒(ぞうどく)の善・偽善と言われております。
雑毒とは、お礼や見返りを期待する心です。誰かに何かをプレゼントした時に、ありがとうも言わずに受け取られると「お礼ぐらい言ったらどうだ」というふうに思ってしまいます。
何かを手伝ってあげたりした時も「ありがとう」と言ってもらえなければ、「やらなければよかった」と後悔する事になります。私たちは煩悩がありますから、どうしても毒が混じった善になってしまうのです。

この事に気をつけて善を行うように心がけて下さいね。親が子供にしてあげる善のように、他人にも見返りを求めない善が出来るようになりたいですね。合掌

第二十四話

仏教は廃悪修善(はいあくしゅぜん)の教え
仏教は真実の自己を映し出す鏡で法鏡(ほうきょう)と申します。真実の自己(自分自身)を知ることが一番大切です
仏教は「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」の教えでございます。悪を辞めて善を心掛けるという意味なのです。

真実の自己がわからなければ、自分の悪にも気がつきません。先月までのお話で、随分と真実の自己が法鏡に映れました。これからも仏法を聞かれて、真実の善が出来るように精進させて頂きましょう。

「汝(なんじ)自身を知れ」とは
問題です。
めは四本足で歩き、中ごろは二本足となり、終わりに三本足となる動物は何でしょうか?

答え
始めは赤ちゃんでハイハイで四本足。
中ごろは二本足で歩いて
終わりは杖をついて三本足です。
答えは人間です。とても有名なお話ですね。エジプトにあるスフィンクスのお話です。スフィンクスが目の前を通る旅人にこの問題を出して、答えられなければ食い殺すという有名なお話です。

「汝自身を知れ」という事です。
本当の自分を知らなければ、本当の幸せにはなれないのです。知っているようで、最も分からないのが自分自身なのです。

灯台下暗し」と言う言葉も有名ですね。
遠くを照らす灯台も、その足元は暗くて見えない。

私たちの眼は色んなものを見ていますが、遠すぎたり近すぎたりすると見ることは出来ません。視力の良い人でも、自分の眼を見ることは出来ません。自分自身が分からないのは「近すぎるから」見えないのです。

だから鏡で自分を見ますが、その鏡も自分鏡も自惚れがあるのでダメ、他人鏡は見る人の都合でコロコロ変わるからダメです。自分を見る鏡は「真実の鏡」つまり法鏡(仏教)で見なければならないという事なのです。本当の自分自身を知って、本当の幸せになりましょう。時間があれば以前の投稿を見て頂き自分自身を映し出してよく観察して下さいね。新しい発見がありますように。合掌

第二十五話

仏様は見聞知(けんもんち)のお方です
仏教では人間の行いを、「身口意の三業(しんくいのさんごう)」で見られます。
その中でも一番重く見られるのが「意」です。「意」は心を表しています。

法律・倫理・道徳では、口と体の行いで善悪を判断します。仏教では、口と体を動かしているのは心なので心で思ったことは全て口と体で行った事と同じになるのです。私たちの心と口と体の全ての行いを仏様は全てお見通しなのです。仏様は「見聞知(けんもんち)」のお方です。見ておるぞ。聞いておるぞ。知っておるぞ。】ずっと私たちの事を見ております。だから私たちは誰も見ていないから「まあいいか…」と思いがちですが、仏様は良い事も悪い事も見逃しません。

私たちは、善悪の判断を口と体の行動だけで判断する生活を送っておりますが、心では恐ろしい事ばかりを考えて罪悪を重ねているのです。私達は今までに必ず「あの人が居なくなってくれればいいのに」「あの人が酷い目に合えばいいのに」など何度も心で思ったことがあるのではないでしょうか?私も心によって今まで沢山の罪悪を繰り返してきました。だから今は、心で思う善も沢山する様に心掛けております。

今月からは、心で思う善を沢山させて頂きたいですね。それは自利利他(じりりた)の心なのです。他人の幸せが自分の幸せになる事を喜べるように成長させて頂きましょう。

第二十六話

与える縁を変えれば運命も変わる
自分の行いの結果は、縁によって大きく変化します。

良い種をまいて、良い縁を選ぶ事が大切です。

例えば、「炭素」()に「常温常圧の熱」()を与える事により「すみ」(果)となります。しかし同じ「炭素」()に「高温高圧の熱」()を与える事により「ダイヤモンド」(果)となります。同じものに与える縁だけを変えれば結果は大きく変わる事がハッキリと理解できます。

このように仏教を聞けば、幸せになれる方法が沢山ありますね。お釈迦様の説法を何度も聞かせて頂き、「幸福の花が咲く素晴らしい人生」にならせて頂きましょう。

今現在、自分に与えている縁が、良縁なのか悪縁なのかをユックリと考えて頂き、良縁は一生懸命に磨いて、悪縁には悪縁の代わりに違う縁を与えることを考えてみては如何でしょうか。


因が自分に返ってくる時期は?
仏教の根幹である因果の道理。
善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

因果の道理には例外が一切無いとお釈迦様が仰られております。良い行いも悪い行いも、全て自分に返ってくるとお話をさせて頂きました。では自分がまいた種が自分に返ってくる時期はいつなのでしょうか?

大きく分けて三種類の時期があります。
順現業(じゅんげんごう)
順次業(じゅんじごう)
順後業(じゅんごごう)

順現業は、直ぐに現れます寝坊して遅刻(因)して叱られる(果)。
順次業は、数年後もしくは忘れた頃に現れます。議員が過去に不正(因)をした。それが数年後に発覚して辞職(果)させられた。
順後業は、何十年先もしくは未来世に現れます。若い頃からの生活習慣(因)が20年後、30年後になって糖尿病・心臓病・脳卒中(果)など成人病にかかってしまった。

わかりやすいように、現在世でのお話で例えましたが、自分の行いは良い事も悪い事も時期はバラバラですが、必ず現在世・未来世で自分に返ってくるのです。

今をどの様に生きれば良いのかがハッキリと分かります。たくさん良い事をして、今後の人生に幸せの花を咲かせるのが今の自分自身の役割ですね。今月からは、良い事が一つでも多く出来るように毎日を過ごすように心掛けましょう。

第二十七話

因縁果の現れ方には二種類ある
先月のお話は、因果の道理の教えで自分自身がまいた種の現れる時期をお話させて頂きました。
今月は、まいた種の現れ方のお話です。

まいた種の現れ方は二種類あります。
等流因等流果(とうるいんとうるか)→まいた種と現れる結果が同質のこと。例えば、殴ったら殴り返された。悪口を言ったら、悪口を言われた。自分のした事と同じ事が自分に返ってくるのです。

異熟因異熟果(いじゅくいんいじゅくか)→まいた種と現れる結果が異質のこと。悪口を言ったら、財布を落とした。人を殴ったら、家が火事になった。自分の行いと違う種類の行いが、自分に返ってきます。

因縁果は、異熟因異熟果で現れる事が多い
ので、何に変わって現れるかは分かりませんが、必ず良いことは良い事で、悪いことは悪い事で返ってくることに変わりはないのです。

人を大切にしないと、自分も人から大切にされない。
人を尊重しないと自分も尊重されない。

自利利他の心で人に接する事が、自分の幸せとなって返ってくる
のです。
今月は日常を振り返り、周りの人を幸せにさせてあげれてるのかを確認させて頂きましょう。
今月も皆さんにとって、幸せの種まきの日々となりますように。合掌

三輪空(さんりんくう)
善因善果 自因自果
良い行いは良い結果となり、自分がまいた種は全て自分に返ってくるのです。例外は一切ないとお釈迦様が仰せになられております。良い行いで一番に出てくるのが布施(親切)ですね。でも布施をする時には心掛けが大切なのです。

布施の心掛けは「三輪空(さんりんくう)」
私が(施者) 誰々に(受者) 何々を(施物)

この3つを忘れるように努めなければならないのです。忘れれば忘れるほど、布施の功徳が大きくなるのですよ。
「長者の万灯よりも貧者の一灯」
お金持ちが万の灯を布施する事も尊いですが、貧しい人が心から布施する1つの灯は、もっと尊い事なのだとお釈迦様は教えられて居ります。

心が一番大切なのですよ。

価値の大小ではありません。

未来の自分を幸せにしてあげる為にも、心からの布施(親切)を心掛けましょう。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌

第二十八話

布施は福田にする
先月は布施の心掛けをお話させて頂きましたが、今月は「布施の相手」についてのお話です。
布施は誰にでも優しく親切に接すれば良いのではありません。

○だらく息子に金銭を与える
○泥棒の手助けをしてあげる

これでは布施ではなく、悪を助長する行為になってしまいます。

布施は「福田(ふくでん)」にするのです。

福田とは「福徳を生む田んぼ」です。
三田(さんでん)ともいいます。
◉敬田(きょうでん)
◉恩田(おんでん)
◉悲田(ひでん)

敬田は仏様に、恩田はご恩を受けた方に、悲田は災害や病気に遭われた気の毒な人・本当に苦しみ悩んでいる人です。

布施は「善因善果 自因自果」なので、布施をして恵まれるのは施した人なのです。

布施をすれば、お金や物が減ると思いがちですが、それ以上に自分に返ってくるのですよ。今月からも引き続き、福田(ふくでん)には積極的に布施をさせて頂きましょう。

第二十九話

縁起とは
縁起という言葉は、縁起が良いとか縁起が悪いと吉兆の前兆で使われていますが、仏教では「因縁生起(いんねんしょうき)」と申します。


因縁の縁と生起の起をとって「縁起」と言っております。縁起とは仏教では「行い」という意味で、因縁果と同じ意味で使われます。

「一切法(万物)は因縁生なり」
大乗入楞伽経(だいじょうにゅうりょうがきょう)

万物は因と縁が結合して生じたものである、と説かれております。
ですから、因(行い)と縁(条件)のどちらかが無くなれば消滅するという教えです。

条件が整えば生じる=縁起
条件が無くなれば消滅する=縁滅

つまり大宇宙全てのものは、因と縁がなければ生じる事がないのです。また縁の種類によって結果が左右される事も頭に入れておきたいですね。

近江商人の言葉
「難の難 乗り越えてこそ 光あり」
「楽に得られるものは、貧と恥のみである」
「成功は努力の結晶である」

とありますように条件が整っても、良い結果を出したいのなら忍耐や精進も必要という事でしょう。

今月は自分の周りを見ながら、因と縁について考えてみては如何でしょうか。今月は皆さんにとって、新しい発見が出来る日になりますように。

12月8日は成道会です。お釈迦様がこの地球上のインドで仏の悟りをひらかれたとされる日です。お釈迦様が法を説いてくだされたお陰で私たちが救われる手段がハッキリと分かりました。成道会はお釈迦様に感謝の気持ちをこめながら、沈みゆく夕日を見て心から南無阿弥陀仏とお念仏させていただきましょう。

第三十話

成住壊空(じょうじゅうえくう)とは
全てのものは、成住壊空(じょうじゅうえくう)を繰り返しているとお釈迦様は説かれております。
全てのものは、因と縁(因縁)がそろって生じます。

因と縁(因縁)が離れるとなくなってしまうのです。

成住壊空(じょうじゅうえくう)とは
成→→因と縁が結合して生じる。(完成の成)
住→→しばらくの間続きます。
壊→→因縁が離れる(仏教では壊→えと読む)
空→→再び因と縁が結合するまで何も無い状態。

全てのものは、成→住→壊→空→成→住→壊→空……ずっと繰り返しております。このことから、固定不変なものは一つも存在しないという事がハッキリと分かります。(諸行無常です。)

ですから、何かに「執着する事」が私たちにとって苦しむ事になるのです。

壊れない(離れない)ものなど一つも存在しません。

大切なものがいつか壊れる(離れる)と分かっていても、いざ壊れると苦しみます。

なぜ苦しむのか?それは壊れない(離れない)と錯覚してしまっているからです。

つまり「執着する事」が苦しむ事になるでしょう。

執着すればするほど、苦しみが大きくなります。

今日から「執着すれば苦しみが生じる」ということを頭に入れて、目の前の状況を明らかに観て、自分にとって必要な執着か無駄な執着かを判断して行動し、楽しい毎日を過ごしましょう。

2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた日で「涅槃会」でございます。私たち人間を救う為にこの地球上のインドの国で約45年間、仏様として御説法をなされておられました。そのおかげで私たちが極楽浄土の仏様である阿弥陀如来とのご縁を頂き救われる身とならせて頂きました。お釈迦様がいなければ私たちの来世は地獄行き間違いなしでした。涅槃会はお釈迦様に感謝の気持ちを込めて沈みゆく夕陽をみて真心を込めてお念仏させていただきましょう。
いつでもお気軽にお電話をして下さい。お坊さん出張のホームページをご覧頂き誠に有難う御座います。合掌

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